山思惟つづき
五葉山の管理員さんには、山小屋で何して過ごすのかと聞かれ、適当に答えましたが、ラジオを聴くでもなく聴きながら、結論の出ないくだらないことを考えるのが常です。
なぜ自分が激動の時代を生き、なぜ原始時代や平安時代でないのかなどと考えるのは定番です。もっともその時代に生きたとしても優雅な貴族ではないでしょう。
書物では昔もあれこれ思惟したのがうかがわれますが、SNSであたかも人の心がわかったような気になる現代です。
結論は出ませんが、たぶん死んだら無でしょう。家族に迷惑がかかるからというのが理性ですが、無になればそんなことにとらわれないはずです。かなり危ない思惟です。
死後の不安が宗教だと考えた時期もありましたが、最近はプッツン=無という思考に傾いていますので、危ないかもしれません。また新しい人生を赤ちゃんからやり直すのかとか考えると、生きていたほうがよいような気がします。
この記事へのコメント
先日、人は大袈裟とかいった記事がありましたが、大袈裟だな〜と思っているうちに会えなくなってしまうことがありますよね。私は同性やおじさんが好きなわけではありませんがあなたが死んだら悲しいので、どうか激動の時代ですが生きていってほしいです。
山で死なないと誓っていますので、たぶん大丈夫です。
くだらない思惟のあとは、いつものように、寒さと闘いながらの断片的な悪夢で朝を迎えました。
頭までシュラフに入れば寒くありませんが、苦しくなって目が覚めるのを繰り返します。